「亀は意外と速く泳ぐ」
2005年、監督・脚本:三木聡
さて、「転々」と同じ監督つながりということで、「亀は意外と速く泳ぐ」という作品を鑑賞。
仮にも広告ブログであることは全面的に無視して、個人的かつ自由なレビューを書きたいと存じます。
ストーリーは省略。説明されるより観たほうが早かろう。
基本的な世界観は、ウィキペディアなどでも紹介されているように、「不条理」なものである。
もうちょっと砕いて言えば「ねーよww」と突っ込みを入れたくなるような場面があちらこちらにある。
商店街で普通に生活する中年夫婦が共産圏のスパイだったり、ダークスーツの公安が公園で体操しながら国家機密に関わるようなことを話していたり。
こうした「ねーよww」な世界観、設定の何もかもがぶっ飛んでいて、登場人物たちがどこかしらビョーキっぽい「亀」の世界は、しかしながら一方で、僕らが多かれ少なかれする妄想や願望を、現実世界に当てはめただけなのではないか、という気がする。
言い換えれば、本当に「ねーよ」ということ、例えば突然ボロ校舎である西早稲田キャンパス3号館が崩れてしまうような、誰も想像しないようなことはこの作中でも起きない。
自分がスパイになり、拳銃を握り・・・ということは、少女マンガのような憧れの世界に対する具体的な形であるような気がする。
ということはつまり、「ねーよww」という不条理な、ぶっ飛んだ、ビョーキ的世界は、実は僕らの内面に潜んでいるのではないか、ということだ。
登場人物が基本的にぶっ飛んだ、なんとなくビョーキっぽい人たちであるのに対して、主人公であるスズメは、僕らの感覚に近い常識人である。
僕らが突っ込みを入れるであろう部分には、期待通り的確な突込みを入れてみせてくれる。
劇中唯一といっていい常識人である彼女は、その悩みも僕ら現代人の持つものにとても近い。
この世界で、自分が誰からも見えていないのではないかという漠然とした恐怖感、必要とされる自分を亀のエサやりというルーチンワークにしか見出せないむなしさは、僕らもどことなく感じるところである。
また彼女の、きわめて人間的な部分も、どことなく僕らに通じている。
ちょっとしたことで他人に優越感を感じ、「ふぇっふぇっふぇww」と肩を躍らせて喜ぶ人間的小ささなども、誰しも覚えのあることではないだろうか。
三木監督はそんな彼女と観客を、ぶっ飛んだ、ビョーキっぽい世界へ引き入れてくれる。
だが、この世界がぶっ飛んでビョーキっぽいものであっても、それが僕らの奥底にうずく妄想や願望の姿であるからこそ、この世界を楽しいと主人公も観客も感じるのである。
本当に「ねーよ」と言いたくなる世界、突然3号館が崩れ落ちてしまうような世界には、僕らだって居たくはない。
そうではなくて、子供のように「こうだったら楽しいのにな」と思うようなことが本当に起きるからこそ、「亀」の世界は楽しいのである。
しかしながら、三木監督はこうして主人公と僕らを楽しませた上で、結局いつもの世界へと僕らを帰す。
具体的なことはネタバレにつながるので触れないが、ぶっ飛んだ世界から帰ってきた主人公の前に開けた世界は、どことなく楽しげであるように描かれている。
これは僕の解釈だけれども、三木監督は結局、見方次第で人生は楽しくもつまらなくもなる、ということを言いたかったのではないか。
これは僕らに対して、希望のようなものを与えている反面、人間とはかくも単純なものだと、半ば小ばかにしているような感じもある。
人間の本質のような部分であるとか、はたまた僕らの内側にある深淵を覗き込んでくるかのような鋭さがありながら、それでもまるで中学校の映画研究部あたりが(もちろんいい意味で)適当に自主制作したかのようなゆるゆる具合で、頭を使うこともなく観ることのできる作品に仕上がっている。
こんなことは、天才というか奇才というか、とにかく並々ならぬ才能を持つ三木監督だからこそなせる技であるように思える。
「転々」でもおそらく、こんな三木ワールドがスクリーンからゆるゆる僕らを覗き込んでくるに違いない。
関係ないけど、劇中でこれでもかというほど現金が出てきたけど、あれはやはり三木監督の願望なのだろうか。
エスプレッソの美味しいラーメン屋で午後のひと時を過ごしたい。
written by まさむね(英語再履修)
