【WDDex+ 002】
夜になって今日は一日宿の外に出ていなかったことに気付き、せめて体の中に新鮮な酸素を入れようと窓を開け首を突き出した。もう5月の半ばとはいえ夜風はひやりと心地よく、星の明りは曇り空を透かして届いていた。日常の喧騒から離れて視界に入れたかったのはこういった人工物の無い風景であり、決してコンクリートでもなければましてや人間そのもの―警察や野次馬たち―でもなかった。非日常を求めていたのは間違いではないが、前者と後者では非日常の性質が全く異なってくるのは言うまでもない。
背後で声がして振り返ると、例の小説家風の学生が軽く頭を下げ、自分の横に座った。彼は外見から受ける控えめで物腰の柔らかそうな印象に対して、舌は滑らかだった。彼がどれほどの時間を共有したのかはわからないが、死んだ老人を悼む言葉を独り言のようにつぶやいたあと、自分の方に向き直り、いままで自分がどんな人生を歩んできたのかを語って聞かせてほしい、と言った。なんでも大学でライフストーリーというものについて研究しており、この領域の理解を深めるにはフィールドワークが最も大切であって、今回この山麓にやって来たのも出会った人にライフストーリーを語ってもらうのが大きな目的の一つだったそうである。自分の生まれてこのかた数十年の歩みは、生来の鈍感さとポジティブさのおかげで自身は大した苦しみは感じなかった。だが、聞く側にとっては耳を塞ぎたくなるような物語であって、望んでなったわけでもないやせぎすな身体と貧相な顔立ちも手伝って、話し終わったころには私が守ってやらないとこの人は自殺してしまう、といった甚だ本意ではない誤解を与えてしまうことが多々ある。こんな山のふもとの宿で身の上話をすれば、明日にでもこの男は山に消えて二度と帰ってこないつもりなのでは、と思われかねないなという懸念を抱きながらもこの学生のためにはいい研究資料となるだろうと、自分の半生を言葉で紡ぎ始めた。
(文:MW)














